風葬地・鳥辺野と六道の辻の記憶を辿る…
前回、禅寺の庭の件で書いた建仁寺近辺には、多くの興味深いお寺や神社があって、
京都に5年も住みながらも行ったことがなかったので、今回は訪れることにしました。
調べてみてわかったのは、京都には三大風葬地というものがあるということです。
嵐山の北にある化野(あだしの)、東山の鳥部野(鳥辺野 とりべの)、船岡山の北西一帯の蓮台野(れんだいの 紫野)という、「野」のつく地区がそれらで、
平安時代の京都で死者を洛外へ運んで野ざらしにし、風葬(遺体を埋葬せずに風にさらし風化を待つ)を行っていた場所なのだそうです。
当時は、仏教の影響により身分の高い人物はすでに火葬を行っていたそうですが、
火葬には木材が必要であり、庶民にとっては最も経済的で楽な風葬が一般的だったとのこと
鳥辺野は清水寺の南側あたりだったらしいのですけれど、
その平安京の葬送地である鳥辺野の入口が六道の辻と呼ばれる場所で、
この世とあの世の境とされていました。
「人は因果応報によって、死後は六道を輪廻転生する」という考え方が、仏教にはあって、
「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道」の6つのコースがある六道の分岐点が、即ち「六道の辻」だったわけです
そう聞いただけで、壮大な歴史絵巻を見る思いで、私なんぞは胸がドキドキしてしまい、
怖いもの見たさで、ちょっと行ってみたい…。
●そして、建仁寺からほど近い六道珍皇寺(上の写真が正面入口)は、平安時代に亡くなった方が鳥辺野へ向かう途中で最後に訪れる寺だったようですけれど、
とてもおもしろい伝説が残っています。
それは、平安時代初期の官僚で文人でもあった小野篁(おののたかむら)が、
本堂裏の井戸から夜な夜な冥界に降り立ち、閻魔大王の助手をしていたというもの
朝になると、別のところの井戸からこの世に戻って、役人としての仕事をこなしていたそうですから、
「すどうして、そんな話ができたのかな?」と思ってしまいます。。。
こちらが、篁が夜な夜な降りていったとされる井戸を捉えたものですが、
庭には立ち入れないため、写真最奥右手の木の幹の影にかろうじて木の蓋のようなものが見えているだけで、それが井戸の蓋です。
境内の閻魔堂、篁堂には、それぞれ閻魔像と篁像がありましたが、
薄暗く、写真撮影は禁じられていました。
●さらに、近くには六波羅蜜寺があります。
951年に醍醐天皇の第二皇子である空也上人によって開創されたお寺で、
口から六体の阿弥陀仏が出ている空也上人立像(教科書で見たことのある像)がありました。
1363年の古い建物が現存しているのは珍しいとのことで、重要文化財になっています。
歴史的には平家から源氏へと変遷した経緯があるようです。
生年月日から割りだした番号と性別を申し出て、自分の一年の運気を出してもらう「開運推命おみくじ」というものがあって、
試しに出していただきました。
四柱推命をもとにした占いが、おみくじの形をとっているもので、
節分からの一年の運気が記されています。
京都のレポートは、もう一回だけあります。
お付き合いくださいませ
くる天 人気ブログランキング
[クリックでのご支援、よろしくお願いいたします♪]
この記事へのコメント
もろはのつるぎ 有田川町ウエブライブラリー